科学を疑えば,心が見えてくる

 

お久しい!!!!

 

勉強と研究に夢中すぎてご無沙汰しちゃってました.

 

まだ読んでくださる人がいることを願って,現在の価値観を揺さぶろうと挑戦してる文章を書きたいと思います.笑

 

ネタはいっぱいあって,しかも先月SNSで言ったのは,茶道について書く!っていう宣言だったんですけれど,現代のパラダイムを批判してみるという文が先に載るとは...ごめんなさい!

 

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この間,最近2冊の著書を出され,イスラエルに研究所を立ち上げ,テルアビブ証券取引所に上場した,株式会社ブロードバンドタワー代表取締役会長兼社長CEOである京大OBの藤原洋先生が私の所属している大学院で講義してくださりました.

今回は藤原先生からのレポート課題

「来たるIoT/AI時代における私(たち)の生き方」

について,藤原先生の講義テーマ

「私たちは何者なのか,どこにいるのか,どこから来たのか,どこへ行くのか」

に倣って書いた私のレポートの内容をもとに今回の記事を書きます.

 

まあせっかく書いたし,意見もらいたいので.

(あくまで僕の主観的内容です.載せる用に説明,文章の追加や太字の設定などしてます.)

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  • 何者なのか

ここでは私個人のことについて書く.

私は今年度から京都大学大学院に進学し,この半年間では,様々な授業を受けつつ,研究では主に貿易データの解析を進めてきた.

元々大学で物理学を専攻していたが,物理学を選んだ理由は,私自身が生きているこの世界や宇宙について,またこの世界を支配する法則について,知らなければならないと感じたからだ.

 

しかし大学を卒業する頃には,量子力学や統計力学までの大まかな概要を知ることができ,それ以上の深く狭い研究にはあまり興味が湧かなかった.

その頃には,より人間に近い世界,人間の思考によって作り上げられた世界の法則を知りたいという思いが私を支配していた.

 

そこで私は,今まで学んだ物理学の方法論を用いて人間社会の現状を解析したいと考え,現在専門としている経済物理学へ行き着いた.

現在はデータの得やすい経済を対象にしているが,ゆくゆくはIoTの普及で得られるデータが増えるので,対象を広げ,社会全体を対象にする社会物理学(社会物理学自体の議論はここでは避ける.)へと拡張したい.

 

 

  • どこにいるのか

私たちが生きている時代は,プラトンから始まり,デカルト以後に確立した科学的価値観の中にある.

 

私を含め誰しもが,科学的にどうであるかを基準にして,判断をしている.言ってしまえば,科学を信仰しているようなものだ.

 

科学はまだ400年ほどの浅い歴史しかない.

今生きている我々が疑いもなく正しいと考えていることが,1000年後にも正しいとされているかは怪しいものである.

1000年前にキリスト教が拡大していたと歴史で学ぶように,1000年後には,西暦2000年頃は科学という宗教が世界を支配していた,と考えられていてもおかしくはない.

 

最も恐るべきことは,ほぼ全人類が疑うことなく(科学を知らないがゆえに疑う人はいる)科学観に没入し,ほとんどの考えが無意識的に科学に基づいているということだ.

 

例えば,宇宙が生まれて138億年という表現がよく使われるが,この値はすぐ変わる(だろう).そもそも70年前に宇宙背景放射が発見されるまでは定常宇宙説(宇宙はずっと変わらず在って永遠っていう考え)が通説だったのである.

その後天文学者や理論物理学者によって天体の観測と理論による係数の計算が進んだものの,宇宙誕生から138億年が経っていると,たった70年程度の観測結果から安易に信じることはできない.

これはあくまでとても大雑把な仮説に過ぎないのであるから.

 

進化という考えも同様で,短い期間(千年程度という意味)の観察から,最も理解しやすい仮説を立てたに過ぎない.

 

人間の寿命よりもはるかに長いスケールの現象に対して行われる“科学”は,その対象の広さゆえ,時代によって通説が大きく変わるだろう.

これは一種の宗教(その時代の価値観の中で,権威のある者の多くが”正しい”と言うことを根拠にして正しいと思い込む”信者”が多いという意味.)と呼んでも全く差し支えないように思える.

 

 

このように考えていくと,私たちは,現在の科学的価値観,パラダイムというとても偏ったレンズを通して,現在の位置を捉えてしまい易いことがわかる.

地球の年齢や進化についても同様である.多くの人や専門家が言っているからといって鵜呑みにしてしまう世の中であること自体が,現代の抱える最大のリスクに思えてならない.

 

科学という名の下で,理解していないことを,理解したつもりになって,今の人間社会は動いている

この状態こそが,我々が今いる位置である.これは人類知能の和が高度に発展したことによる副作用である.

 

 

人類が300年よりもとても長い時間スケールで存在しているということは事実であるとすると,科学が存在していなかった,人類にとって大半の時間は,自らの認知,感覚,主観に基づいた思考の交流によって築かれていただろう.

大半の時代は,自分がわかる範囲の世界が,生きている世界とほぼ同じだった.

 

それに対して,ここ最近では,心をなくすことが求められる科学のパラダイムの中にいる.客観的であることが求められているこの価値観は人類に多大な恩恵をもたらしているが,同時に,心の病をもたらしているのではないか,と私は感じている.

 

現在存在している全ての概念を疑い,今生きている時代のパラダイムの外から見ようと努めなければ,今どこにいるのかを全く見誤ってしまうことだけは間違いないのではいか.

 

今の(時間的な)場所を知る上で大切なことは,“科学という考えの下では”ウンタラカンタラと考えられている,というパラダイム,“”の中の前置きをしっかり認識した上で理解する意識だ.

 

 

  • どこから来たのか

そのように考えを進めた上で,知識と認識の両面から,我々がどこから来たのかを考える.

 

今の私たちから過去の人類を振り返って評価すると,人類は理知的だが馬鹿であった.同種で争い合い,異種を脅かし,多くの物を生み出しながらも,破壊してきた.

 

知識の未熟さゆえに多くの間違いを犯し,また,間違いを犯したことで今の我々がある.

間違いから学びつつ,今もまた,間違いを犯し続けているのだろう.

 

知識は歴史とともに積み上がり,未来の人類もまた,私たちを見て馬鹿であったと思いながら,子々孫々と産んでくれたことに感謝する.

 

つまり知識の面において,私たちは馬鹿からきた

 

 

では認識の面ではどうか.

 

これはここ数世紀の出来事であるかもしれないが,人間は自分の認識を極度に無視し始めた.数世紀前の人間はこのような経験はしてないのではないかと思う.

失敗から学び,また,知的好奇心から科学が生まれ,現代では皆(未開の地の民族を除き)が科学観の中で生まれ,教育される.

 

科学観に基づく世界においては客観性が重要視され,自らの認識をないものとして扱うことが求められる.

子供の頃は認識した世界の中でのみ生きていたのに,いつの間にか自分の認識を疑うようになり,成人する頃には,自分の認識はないものとして客観的事実を追求する人間が作られる.

 

私が認識しているという事実は確実に存在しているものの,ないものとして扱うところから無理が生じる.

現在の価値観では,心や感覚を抑圧することが,正常な理性的人間に求められる最低条件のようなものになっている.(その割に自分の感覚は大事にしろとか意見を言えと求められる.)

 

自分の認識や感覚を,自ら気づいて大切にしたり,他人から大切にされたりする環境があれば精神は保たれ得るが,そのような環境下にない者は,鬱になり,自殺まで追い込まれることもある.

 

しかし考えてみれば,我々が元々いた場所には,科学はなく,認識を抑える必要などなかった.(と言っても私個人が考える程度のことなので事実は異なっているかもしれないが.)

 

つまり,当然のことであるが,私たちは自由な認識からきた

 

 

  • どこへ行くのか

さて,現代は過去に比類のないほどの発展を経験している.

 

我々人類は遂に,計算機を発明し,更には,高度な知能を生み出すことにまで成功した.人工知能と呼ばれるそれは,人間の脳をモデルにして作られた.

今ではディープラーニングを通して,人間にも理解できない学習を行うため,高度な知能を持つ新たな種が生まれたようなものだろうか.

 

また,IoTが普及し始め,人類の数よりも,物に振られるIPアドレスの数が多くなる時代が来た.IoTは,人間や自然のビッグデータを供給してくれる.

 

 

私たちの社会は,ある程度裕福になったことにより多様性を重視する風潮になった.これまでは表に出ることのなかったマイノリティでも,社会に堂々と進出できるようになったのだ.

 

そんな中でIoTとAIは,多様性が担保された,新たな社会創りを推し進める原動力になる.

IoTによって得た大量の情報をAIが処理することで,より個人に最適な環境を構築することが可能になる.

 

 

しかしここで問題となるのは,最適をどう捉えるかである.

 

 

今の個人が最適と考える選択肢をそのまま最適と捉えると,その個人の成長は見込めなくなるだろう.

 

社会やサービスが成長を見込んだ最適を提供するとしても,その最適を決める計算は,その個人以外のデータをもとに提供されるのだ.

 

ある程度,個人の特徴からグループ分けして提供するとしても,そのように適応させることが本当にその個人にとって良いものであるかは誰にもわからない

 

未来を創る私たちは,現在のパラダイムに染まり過ぎず,失いつつある個人の認識を重視した,自らが自分を見つけるような,社会システムを作らなければならないと思う.

 

私はこの課題に,社会物理学でもって取り組んでいく.

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という感じです.

最後まで読んでいただき有難うございました.

 

それっぽいこと言いながらも,ふんわりとした仕上がり(笑).

ここまで大きいテーマは,まとめられないです.

 

この文章の中に議論すべき点は山のようにあって,一文一文が研究テーマになるくらいの内容であると思います.

 

統計と確率から構成される世界の中で,意思を持つ我々は,何をもとに主張できるのか.多様性やプライバシーが確保されることで何を言っても炎上する世界になってしまうのは望ましくないように感じます.

 

まず自分自身について考え,堂々と自己を確立できる環境と,他者を尊重できる環境が求められています.その環境をどう築くか,が社会システム(教育であり哲学であり,政策)という複雑系の設計だろうと思います.

現在の科学の手法でそれが果たせるのかは,僕にはなんとも分かりませんが,心と向き合う必要があることは確かだと感じています.

 

(写真の生け花は僕が初めて生けたお花です.)

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